『誰が国家を殺すのか』 塩野七生・著

この頃では大衆迎合政治という意味でポピュリズムというらしいが、昔の日本人が翻訳した「衆愚政」のほうが的を射ているのではないか。愚かになったのは大衆だけでなく、指導者たちまでが愚かになったのだから。それに、大衆の考えが正しければ迎合してもいっこうに不都合ではないが、怒りと不安に駆られ、それを他者に責任転嫁する一方になってしまっては、正しいはずはないのである。ポピュリズムという、誰に責任があるかはっきりしない名称よりも、衆愚政としたほうが適切と思う。政治家も有識者もマス・メディアも行政担当者もふくめたわれわれ全員が、「愚か」になってしまったという意味で。
『誰が国家を殺すのか』 塩野七生・著
(「民主政が「取り扱い注意」と思う理由」より p73)

『文藝春秋』2017年10月号〜2022年1月号に投稿したもの。

2000年前のローマでは、4年でコロッセウムを完成させたのに、現代のイタリアは病院一つ建てるのに30年かかってしまう、と嘆く。公共事業を採算度外視してもやるのか、需要の見込みがたたないとやらないのか。つまり「政治」と考えるか、「経済」と考えるかの違い。

との命題から始まる。

「諸行無常、盛者必衰」の人間世界の「理」を、歴史上の政治家や民衆を例に出しながら「国家」を問うていく。

現在は私たちは、日本政治の朽ちた現実を目の当たりにしている。
「選挙のための政治ではなく、日本のあるべき進べき道を示す政治」にしなくてはならない。

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