12/8 John Lennon 何年経っても

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12月8日。
何年経ってもジョン・レノンを思い出す。

1976年8月30日。
NYセントラルパークで偶然ジョンとヨーコと遭遇。
信号待ちのわずかの間、ジョンに話しかける。
“Thank you” と3回応えてくれたジョン。

私の人生の宝物。

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X(Twitter)に登場した「あの日、あの時」の私のスケッチ。

ジョン・レノンに出会った思い出!

お役に立てるのかな?〜PV撮影に協力

大手某メガネメーカーのPV(プロモーション・ビデオ)の取材の依頼を受けてその撮影を行う。広報担当責任者、カメラマン、スタイリストなど5名のスタッフが来られて、思っていた以上に本格的でびっくり。(何も知らずにお受けしたが、果たしてお役に立てるのか心配)

メガネはもちろん某メーカーのもの。
フレームサンプルを何十種類も持ち込みその中からイメージにあるものを選ぶ。
オフィスでのデスクワークとハンガー生産現場と、服装もネクタイスーツ姿とビジネスカジュアルの2パターンで撮影。

映像は来年3月頃に完成し、全国のメガネショップや(関東圏・近畿圏ではあまりないそうだが)地方によってはTVコマーシャル放映もあるそうだ。
さてさて、どうなるやら。

『櫻井拓斗 ダンスの世界』櫻井拓斗 但馬コネクション#78

今月は、芸術文化観光専門職大学4年生、会場のシェアハウス「江原101」在住、そして但馬コネクションのスタッフでもある櫻井拓斗くんがゲスト。(あえて「くん」と呼ばせてもらいます)

拓斗くんは、7歳よりダンスを習い、コンテンポラリーダンサーの登竜門である「神楽坂セッションハウスアワード2024」でグランプリを受賞した若手ダンサーのホープ。

受賞者公演作品である『SEEEEEEEED!!』を再演。

セッション開始前に簡単な打ち合わせをして聞いたのですが、拓斗くんが振付・演出した作品を大学や地元で発表したものは10作品以上あるそうだが、自身がパフォーマンスするのは、豊岡では初めてとのこと。(もちろん東京などでパフォーマンスは何度もしているが)
貴重な鑑賞となりました。

約20分のダンスの後は、拓斗くんの自己紹介を兼ねながらコンテンポラリーダンスに至るダンスの歴史、流れを解説。櫻井三兄弟の小学生の頃の自宅で撮ったダンスの映像、高校時代に振付をしたダンス部の映像など、愉快な映像も披露してくれる。本当にダンスが好きなんだ、と伝わってくる。

作品作り、パフォーマンスと音楽(作曲とPC演奏)の関係など、質問がいっぱいでる。多才な拓斗くんであることを再確認。

12月なので、後半は「忘年会」風にみんなで打ち解けて交流会。
ドイツ本場仕込みの「グリュワイン」や古代米(赤米)の「おはぎ」など、但馬コネクションの顧問スタッフから提供していただく。心も身体も温まる素敵な交流会となりました。

シャンソン・コンサート〜歌大好きが伝わってくる

ここは日航ホテル大阪のパーティ会場。
5人のシャンソン愛好家であり、唄うのが大好きな皆さんのコンサートにご招待いただく。

もう10年近くレッスンに励まれ、玄人はだしのシャンソンを聴かせていただく。

第一部では『越路吹雪生誕100年』として「サントワマミー」「ケ・サラ」「愛の讃歌」など5曲、第二部では『アズナブール特集』として「悲しみのベニス」「ラ・ボエーム」「八月のパリ」など5曲を5人のメドレーで唄う。

シャンソンの後は、ホテルすぐ近くのワインバーで、出演者の家族の方たちと感想を語り合い、いい気分でライトアップされた御堂筋をしばらく散歩しながら夜が更ける。

久しぶりの余部橋梁

義理の妹夫婦(火山と地質研究)とその友人(乗り鉄)を案内して余部(あまるべ)鉄橋に来る。
余部橋梁(兵庫県美方郡香美町香住区余部)

余部鉄橋と言えば、どうしても列車転落事故の話をしなくてはならない。

1986年(昭和61年)12月28日の午後1時25分ごろに強風に煽られて通過中の列車が転落。乗務していた車掌1名と真下にあった水産加工工場の従業員5名の計6名が亡くなった。最大風速約33m/sの突風が吹いていた。

ちょうど同じ時刻に、私は会社の年末休日を利用して子供たちを車に乗せて大阪へいく道中であった。中国自動車道を東へ向かって走っていて、北からの強風に煽られてハンドルが取られるぐらいだったのをよく覚えている。但馬では雪が降り始めたかな、と思いながら運転していたが、まさか余部鉄橋から列車が転落するなんて想像もしなかった。

「余部」と口にするとその時を思い出す。

列車は香住駅から浜坂駅への回送中のお座敷列車で乗客がいなかったのが幸いだったが、下で働いていた人のことを思うと居た堪れない。

余部は山陰海岸ジオパークエリアにある。
リアス式海岸が続く。その突端にある村の一つの御崎(みさき)地区の「百手(ももて)の儀式」はよく知られている。平家の落人の集落と言われていることにまつわる行事。

余部集落は「屋根の向きが同じ」の解説が面白い。冬の強い季節風に瓦が飛ばされないように切妻屋根を風上に向けている。(上の集落写真)

昔は休日などはぶらりと車で但馬のあちこちを訪ねてたなあ、余部も御崎も。


ちょっと友人陶芸家のアトリエ拝見

陶芸家のMさんちに立ち寄る。
エントランスと言うか表アプローチと言うか、素敵なお家。
木々は、我が家の庭のお世話もしてもらっている庭師のKさんが植える。

山の裾野にあるアトリエ。
開けたこの空間がいい。

なんだこれ??
庭師さんの遊び場かな?
アトリエ横の林に囲まれた空き地を利用して作庭中。
さて、どんな庭ができるのか今から楽しみだ。

最近、メキメキと人気が出てきた陶芸家Mさん。
あちこちのギャラリーで個展も頻繁に。
私は渋谷のギャラリーにも行きました。
我が家の茶道具にもMさん作が増えてきました。

やくの玄武岩公園

玄武岩と言えば「玄武洞」。玄武岩の名前の由来にもなったので当たり前の話ですが、京都府福知山市夜久野町にも玄武岩を見ることができるスポットがるのをご存知でしょうか。

「やくの玄武岩公園」(京都府福知山市夜久野町小倉)。

高さ15m、幅150mの切り立つ柱状節理。近くにある田倉山が約38万年〜30万年前に少なくとも3回噴火し、その最初の噴火の小倉溶岩のもの。

柱状節理は、熱い溶岩が冷え固まる時にで切る冷却割れ目。ゆっくり冷えた部分は冷却面に対して垂直な柱状になる。
大気に触れる溶岩最上部は急速に冷やされて板状の割れ目(板状節理)になる。このやくの玄武岩は最上部に厚さ数mの板状節理があり、その下が高さ15m、一辺40-50cmの六角形の柱状節理になっている。

視点は変わりますが、下が岩盤の土地の地表(土)はわずかであることに気づきます。この狭い表土に根を下ろし、木々が生えている。こういう断面を見ると、いつも地球って繊細なんだなって思う。

やくの玄武岩公園から1〜2km離れたところにある田倉山。
遠くから眺めるとなだらかな山ですが、よく近づいて観察すると確かに噴火口のようなくぼみが見える。

夜久野高原は、火山噴火の溶岩が冷え固まって形づくられた溶岩台地であるを再認識できました。

生野銀山〜但馬は鉱物資源の宝庫

生野銀山を見学。

義理の妹夫婦とその友人を案内して但馬巡り。義弟は火山・地質学者なので、玄武洞はじめ山陰海岸は案内したことがある。その友人は、長年仕事の関係で家族と共に30年以上にわたりヨーロッパ、オーストラリア生活。ちなみに「乗り鉄」(全国の在来線をほとんど網羅されている)。

生野銀山はまだ見学したことがないと言うので案内。
私もずっと以前にはあるが2回目となる。

ああ、これがあの「銀山ボーイズ」たちか。
超・スーパー地下アイドルたちである。
銀採取の作業を再現するマネキンたちが次から次に通路脇に登場する。なかなかリアルに作ってあって臨場感たっぷり。

生野銀山の歴史を復習しておきます。

807年 銀の鉱脈を発見
1542年 山名祐豊時代に銀鉱脈の本格的な採掘
1578年 織田信長 代官を置く
1600年 徳川家康 銀山奉行を置く
1716年 江戸幕府は、奉行を廃して代官を置く。
1868年 明治政府官営鉱山となる
    フランス人技師ジャン・フランソワ・コワニェが着任
1896年 三菱合資会社に払い下げ
1973年 閉山

最深部は海面よりも下にある。採掘の技術と苦労を思う。

坑道の出口に近づいたところでコウモリを発見。
地中に掘った通路を通り、マネキン人形の作業風景をずっと見てきたので、生きたコウモリに出会うのが何か新鮮な気分。

右の写真は、まるでアリの巣のような坑内の立面模型。

江戸時代初期には、世界有数の銀の産出量を誇り最大の輸出品であった。

改めて、但馬は鉱物資源の宝庫だったことを実感しました。
「但馬は鉱物資源の宝庫」~但馬学4月例会 in 大屋(2011/4/28)

山はうっすらと初冠雪

山はうっすらと初雪。
朝焼けに照らされて。

妙見山方面。

さて、神鍋高原スキー場の今冬の雪はたくさん積もるのでしょうか。
暖冬の影響で近年は不安定な積雪に悩まされている。

紅葉から落ち葉へ〜晩秋の庭(3)

これぞ紅葉の本命でしょうか。
庭のカエデのグラデーションが美しい。

種類の違うカエデの葉が重なり合う。

鮮やかな紅葉。

温暖化による真夏の猛暑が当たり前になりつつある。
庭のカエデの紅葉も、どうも以前と変化してきているように思う。
以前は、もっと深紅で、黄葉のカエデもあったけど、こんなに多くはなかった。