「朝鮮通信使」は、高校時代に大学の受験勉強で覚えている。朝鮮からの使節団が江戸まで行く道中の行列の絵図もありました。
ただその時は、使節団を送る経緯や目的、それは日本にとって、朝鮮にとってどういう意味を持っていたのか、など、考えもしなかった。
念の為の確認。
現在は「通信」と言えば、郵便・電話・電信・パソコンなどを使って情報をを伝達することを指すことが多いが、朝鮮通信使は「信義を通じる使節」の「通信」である。
朝鮮通信使は,足利・豊臣・徳川の武家政権に対して、朝鮮国王が国書や進物をもたらすため派遣した外交使節団のこと。
1回の派遣人数は450名〜500名。正使・副使・書状官、輸送係、医師、通訳、軍官、楽隊など。さらに旗手、銃手、料理人、馬術師、馬の世話係、贈物係、旅行用品係、画家、水夫なども随行した記録がある。
この歴史館は、1592年の秀吉による朝鮮征伐(文禄・慶長の役)の以後の朝鮮時代後期の通信使を紹介している。
江戸時代の朝鮮通信使は、主に将軍の代替わりを祝うために江戸幕府が朝鮮に要請したもの。費用は通信使が通過する諸藩が負担(筑前、長門、備前、播磨、摂津、近江、、、、、)、ソウルから江戸までの往復を8〜10ヶ月かけて行なったもの。江戸時代に12回の通信使が派遣される。
1回目は1607年、国交再会の回答と被虜人の返還
3回目は1624年、徳川家光の将軍就任
5回目は1643年、徳川家綱の誕生祝い
9回目は1719年、徳川吉宗の将軍就任
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12回目は1811年、徳川家斉の将軍就任
特に国書の伝達と文化交流に重点が置かれる。
朝鮮通信使が派遣されていた約200年間は、日本と朝鮮との間での争いはなかった。隣国同士がこれほどの長期にわたって戦争がなかったのは世界史的に見ても異例であること。
現代で言えば、対話(コミュニケーション)と文化(カルチャー)の交流ということになる。日本は80年前は隣国と戦争していた訳だから、200年間の隣国との平和を保てたことがいかに重要かが分かる。