初 GRAND GREEN OSAKA

コンサートから一夜明けて、せっかくの大阪梅田なので、9月6日に一部先行オープンした「グラングリーン大阪」を散策してみました。

大阪駅北側のJR貨物の引き込みコンテナヤードで長年工事の目隠し塀に囲まれていたゾーン。通称「うめきた」の第2期再開発。第1期は2013年にオープンした「グランフロント大阪」

東京と比較しても決定的に緑地が少ない大阪市。特に梅田周辺は駅と商業施設とホテルが建ち並ぶ。そこにこの「うめきた公演」ができたのは大正解だと思う。まだ植えたての芝生は立ち入りができないが、噴水や周囲の庭園で遊ぶ子どもたちの姿が目に浮かぶ。

これまで梅田スカイビルは、大阪駅から距離のあるちょっと行き難いビルのように思っていたが、グラングリーン大阪ができて通勤などの人の流れが大きく変わったように思う。

今さら、東京に追いつけ、追い越せはないだろうけど(その発想も不要ですが)、ビジネス街としてショップ&レストラン街として、先端を行く梅田でもあって欲しい。

ホルンコンサート〜ラドヴァン・ヴラトコヴィッチ

ラドヴァン・ヴラトコヴィッチ(Radovan Vlatkovie)ホルンコンサート。
ホルンのコンサートは初めてだ。

7月に我が家で合宿リハーサル但馬コネクションで公開リハーサルを行なったピアノの児嶋一江さんからのお誘い、ヴァイオリンはおんぷの祭典で毎年来演の須山暢大さんということもあり楽しみなコンサートとなりました。

ホルンの優しくて暖かい音色をイメージしながら会場の住友生命いずみホール(大阪市)に向かう。

ホルン、テノール、ヴァイオリン、ピアノのソロと組み合わせのプログラム。

ベートヴェン:ホルンとピアノの為のソナタ ヘ長調 op.17
シューベルト:「白鳥の歌」D957より《愛の使い》《セレナーデ》
シューマン :幻覚の変奏曲
シューベルト:《流れの上で》歌、ホルンとピアノの為に op.119 D943
ブリテン  :カンティクル第3番《それでも雨は降る》op.55
ブラームス :ホルン三重奏 変ホ長調op.40

初めて聴くブリテンのカンティクル(「聖歌」「讃美歌」)は特に印象に残る。副題「1940年の爆撃に」とあるように、ドイツ軍がイギリス本土に攻撃した情景が描かれている。ホルンの深みある時には激しく、神への祈りにも通じるテノール。

主催者(株)ドルチェ楽器さんと演奏者の打ち上げにも呼んでいただく。名古屋→東京→大阪と続いたツアー最終でもあり、大いなる乾杯でした。

テーブルの隣同士で今回のコンサート評や音楽談義。
私は「ブラームスがどうも分からない、嫌いではないが入り込めない」と隣のK氏に打ち明けると、お薦めの曲を皆さんからいただく。
ブラームス交響曲2番、1番、4番(この順で)
セレナーデ2番イ長調op16

「シューマン、ブルックナーも同様なんです」と打ち明けるとK氏から
交響曲7番(ただしウィーンフィルだよ!)とお薦め。

早速聴いてみよう。

慶州・釜山の食は宝物だ

コンドゥレ釜飯
コンドゥレとは高麗アザミ。
釜からご飯を取った後、釜にお湯を入れてお焦げも食べる。

韓定食
定食といえば、焼肉定食、天ぷら定食など、メイン料理にご飯やおかずが付いてるイメージですが、「韓定食(ハンジョンシッ)」は、おかずがたくさん出てくるご膳系メニューのこと。宮廷料理 、家庭の味を数十種類味わえる”田舎定食、伝統韓定食など。

海鮮料理
生の貝類、エビ、タコ、アワビ、ムル貝、、、韓国だけの日本名のないもの。
アワビご飯は絶品。

サムギョプサル
豚バラ肉の三枚肉のみに特化。厚切りの肉を全く味付けせずに焼く。
ハサミで切りながら焼き、いろんな薬味を付けながら食べる。生のタマネギにタレを乗せてガブリといくのがメチャ美味しい。最後は冷麺をハサミで切りながら。

ワカメスープ定食
韓国語で「ミヨック」。 「ミヨ」はワカメ、「クッ」はスープ。誕生日やお祝いの時にワカメスープを食べるそうです。
ともかくヘルシー。生野菜、様々なキムチ、豆腐などなど。小皿に入ってつまみながら食べるスタイルは最高です。この店では、ワカメスープの出汁に貝かカレイを選べるので、私はカレイを選んで注文。最高でした。

甘川文化村〜 “gentrification”って?

こんなカラフルな集落があるの?

韓国釜山の西側にある甘川文化村。

最初からあった集落ではなく、1950年の朝鮮戦争により北朝鮮から避難してきた人々が移り住みつくられた集落。 住民は貧しい生活を送っていたところ、家賃が安いこともあって、芸術家たちが移り住み、村の景観が変わって行く。

徐々に観光客の人気を呼び、やがて商業資本や資本家が目をつけ、現在の観光名所になっている。逆に、当初の芸術家たちは、家賃が高騰し離れていくことになる。

gentrification(ジェントリフィケーション)

高級化。中産階級化。劣悪化している区域に中流階級あるいは裕福な階級の人口が流入して行くのを伴った区域再開発・再建プロジェクトのことで、通常それまでの貧困層の住民が住む場所を失う。

ニューヨークでも上海でも、世界各地で見られますね。

朝鮮通信使歴史館〜文化交流と平和

「朝鮮通信使」は、高校時代に大学の受験勉強で覚えている。朝鮮からの使節団が江戸まで行く道中の行列の絵図もありました。

ただその時は、使節団を送る経緯や目的、それは日本にとって、朝鮮にとってどういう意味を持っていたのか、など、考えもしなかった。

朝鮮通信使が通った道を示す図

念の為の確認。
現在は「通信」と言えば、郵便・電話・電信・パソコンなどを使って情報をを伝達することを指すことが多いが、朝鮮通信使は「信義を通じる使節」の「通信」である。

朝鮮通信使は,足利・豊臣・徳川の武家政権に対して、朝鮮国王が国書や進物をもたらすため派遣した外交使節団のこと。

1回の派遣人数は450名〜500名。正使・副使・書状官、輸送係、医師、通訳、軍官、楽隊など。さらに旗手、銃手、料理人、馬術師、馬の世話係、贈物係、旅行用品係、画家、水夫なども随行した記録がある。


この歴史館は、1592年の秀吉による朝鮮征伐(文禄・慶長の役)の以後の朝鮮時代後期の通信使を紹介している。

江戸時代の朝鮮通信使は、主に将軍の代替わりを祝うために江戸幕府が朝鮮に要請したもの費用は通信使が通過する諸藩が負担(筑前、長門、備前、播磨、摂津、近江、、、、、)、ソウルから江戸までの往復を8〜10ヶ月かけて行なったもの。江戸時代に12回の通信使が派遣される。

1回目は1607年、国交再会の回答と被虜人の返還
3回目は1624年、徳川家光の将軍就任
5回目は1643年、徳川家綱の誕生祝い
9回目は1719年、徳川吉宗の将軍就任
・・・・
12回目は1811年、徳川家斉の将軍就任

特に国書の伝達と文化交流に重点が置かれる。
朝鮮通信使が派遣されていた約200年間は、日本と朝鮮との間での争いはなかった。隣国同士がこれほどの長期にわたって戦争がなかったのは世界史的に見ても異例であること。

現代で言えば、対話(コミュニケーション)と文化(カルチャー)の交流ということになる。日本は80年前は隣国と戦争していた訳だから、200年間の隣国との平和を保てたことがいかに重要かが分かる。

金井城山でマッコリ作り体験

釜山のセンタムシティから車で40分ぐらい北に行ったところに金井山城(クムジョンサンソン)がある。海抜約400mのところに韓国の万里の長城と言われる韓国最大の城壁がある。
ご当地名物のマッコリ作りに挑戦。

金井山のマッコリに使われる麹は約500年の伝統がある。18世紀初めに金井山で韓国最大の城壁「金井山城」が築城されていた時、全国から集まった作業員にマッコリが振る舞われる。築城後、故郷に帰った作業員たちが金井山で飲んだマッコリの味を語ったことで韓国全土に知られるようになった。

主原料の米と麦を蒸し麹を混ぜ、水を混ぜて容器に入れて、発酵(熟成)させて作る。

麹を混ぜ、足で踏み、ザルで濾し、容器に詰めて持ち帰りの容器に入れる。
さーて、自宅でどんな美味しいマッコリができるのか?

慶州から釜山へ

モノレール「スカイカプセル」で海雲台へ

慶州を後にして、いよいよ初めての訪問となる釜山へ。
釜山東部にある青紗浦に到着。

海雲台ブルーラインパークの青紗浦駅から小型モノレール「スカイカプセル」のって海雲台へ。

モノレールに乗る前に「青紗浦タリットル展望台」。先端の折り返し地点は床がガラス張りになっていて真下に波打つ海が迫る。なかなかスリルがある。

釜山といえば、韓国最大の港湾、市場が有名で食料や日常品を買い求める市民で賑わっている。そんな印象を持っていたが、どうも違うぞ、と思いながら夕暮れの釜山へと行く。

釜山エックス・ザ・スカイ」は、2020年にオープン。海雲台(ヘウンデ)にある高層ビル。海雲台にあり、高さ411.6メートル。

100階展望フロアからは、釜山の海や山、マンション群が一望できる。

強度ガラスの床。
「ショッキング・ブリッジ」はスリル満点。

車で少し西へ走り「センタムシティ」を眺める。
「これが釜山?」と驚きを隠せない気持ち。
威容というべきか、異様というべきか。

センタムビル群。
水営湾にかかるブリッジ。
なんともすごい景色だ。

西の空は夕焼けに染まる。

海鮮料理のレストランで夕食。
魚介類で始まる釜山の食事。

両班(ヤンバン)の村「良洞」(ヤンドン)を訪ねる

慶州の中心部から車で40分ぐらい北上するところにある村「良洞」(ヤンドン)
瓦屋根と藁屋根の入り混じった600年以上の歴史を持つ両班(ヤンバン)の集落。
現在もその伝統を守り、自然と調和しながら実際に村人が居住する。2010年にユネスコ世界遺産に登録される。

ヤンバン【両班】〔朝鮮語〕
高麗・朝鮮王朝時代の官僚組織、また特権身分階級。朝鮮王朝では、官僚は東班(文班)・西班(武班)の両班に分けられ、兵役・賦役免除の特権をもち、封建的土地所有を行なって常民・奴婢を支配した。党派に分かれ党争をくり返したことで、朝鮮王朝衰退の原因となる。
【大辞林】より

石を積み上げ、土を塗った土塀、瓦屋根も美しい。

各家の庭の隅には、陶器の壺が並ぶ。
キムチや味噌醤油などが詰め込まれているのだろう。(未確認)

「書百堂(ソベッタン)」は、慶州孫氏の宗家で、入郷祖の孫昭が1484年に建てた家。宗家らしい規模と格式を備えている大屋敷。朝鮮前期の住宅の重要資料となっている。
別名「松簷(ソンチョム)」とも呼ばれている。

「観稼亭」。
朝鮮時代の名臣・孫仲暾(ソン・ジュンドン)(1463-1529)が住んでいた屋敷。
村の高台にあり、この部屋(写真左)からの見晴らしは最高。

村中が自然に囲まれた佇まいが美しい。

重要民俗資料に指定され、世界遺産に暮らす現在の住民たちは、どんな生活をしているのだろうか。おそらく住み難いところもあるだろうし。
観光客用のトイレも美しく保たれ、道順の標識や案内もしっかりしている。伝統文化を守るのにかなりな国家予算を注ぎ込んでいるのではないか。
ふと、今の日本の文化予算はどうだろうか?と思う。

慶州の夜

ヒルトンホテル部屋からの景色

慶州ヒルトンホテルにチェックイン。

紀元前から10世紀まで1000年続いた新羅の都・慶州を訪ねる、との想いで訪れたのに、ホテルの窓から見えるのは、どうもリゾート地のよう。(後に判ったが、ここは普門湖周囲を利用した観光特区「慶州普門観光団地」。コンベンションホール、高級ホテル、ゴルフ場、水上施設、遊園地がある)

夕食は焼肉(牛カルビ)。
ネギがいっぱい入った少し甘辛のタレ。多彩な薬味、キムチ、唐辛子、牛蒡、大根などなど。脇役の食材が嬉しい。

仕上げに麺を注文。
細い麺に味噌ダレが乗っかった冷麺。(盛岡で食べたのを思い出す)
なんとインスタント(?)のラーメン??(これがまた美味しいのです)

食事の後は「慶州東宮(ドングン)と月池(ウォルジ)」へ。
新羅時代の東宮を1970年代に発掘し復元。
新羅王朝滅亡後は荒廃し、雁や鴨が生息して雁鴨池(アナプチ)と呼ばれていたそうだ。

ライトアップして水面に映る建物が美しい。

幻想的な気分を味わいながら、慶州の夜が更ける。

今年の韓国への旅は慶州・釜山へ

金海国際空港

韓国・釜山の空の玄関口、金海(きめ)国際空港へ到着。
関空から1時間30分。
昨年のソウルに続き、今年は慶州と釜山を訪ねる旅。

昨年のソウルは、建築家・安藤忠雄設計の建築を見て回るのが目的の一つ。

4年ぶりの海外〜韓国ソウルへ(LG ARTS CENTER)(2023/06/11)
Museum SAN〜”Youth”「 青春」安藤忠雄展(2023/06/15)

今年は、韓国南東部にある慶州を訪ねる。
慶州は、紀元前57年から紀元後935年まで続いた新羅王朝の都。
百済・高句麗・新羅の三国時代を経て、新羅が朝鮮半島を統一。
日本へ渡来してきた古墳、仏教などのルートでもある。

仏国寺。新羅の仏教文化の中心。
文禄・慶長の役で建物や宝物のほとんが焼失したが復旧され、現在はユネスコ世界文化遺産に登録されている。

上段の「紫霞門」につながる青雲橋と白雲橋。

削り落ちたり、黒褐色になっていたり。

豊臣秀吉の命令で朝鮮に出兵した「文禄・慶長の役」の折に、加藤清正が攻め入り、建物、宝物のほとんどが焼失してしまった。基礎石の上部は復元されたもので、この部分は当時のまま残る。

秀吉の朝鮮侵略は、「明」征服を目指してのものとは言え、朝鮮半島に大きな爪痕を残している。なんとも言えない気持ちになる。