「お別れの会」〜裏千家第十五代家元

茶道裏千家15代家元 千玄室「お別れの会」に参列。

「大宗匠」とお呼びしていました。
大正12年(1923年)4月19日生まれ。
令和7年  (2025年)8月14日ご逝去。
享年102歳。

戦後(太平洋戦争)、茶道の普及、国際交流に貢献される。
ご自身の戦争体験(学徒出陣で海軍航空隊に所属)の中で特攻隊員となり仲間の出陣前に茶を点てた話は、私にとって一番衝撃を与えられたエピソードです。

「お別れの会」の会場は、京都国際会館で行われる。
献花の長蛇の列。おそらく5000人近い人が参列されたでしょう。

年初めの今日庵の初釜では、毎年「今年も元気で」と肩をポンと叩きながら声をかけていただいたのが思い出される。100歳を超えて尚、お茶を点てて国際交流で海外にも足を運ばれたバータリティは、きっと戦争体験を通じて得た平和の大切さ、今後の日本を想う心が源泉だったのだろうと思います。

ご冥福をお祈り申し上げます。

“和”お茶の心〜近畿第一学校茶道連絡協議会

茶道裏千家淡交会 近畿第一学校茶道連絡協議会の研修会に出席する。会場は「ホテルオークラ京都」。近畿第一地区(奈良・滋賀・京都・宮津・両丹・但馬)において子ども達へ茶道の普及と指導を行っている先生(お茶の指導)が集まり、事例発表などの情報交換をする。

事例発表に先駆け、淡交会専務理事の野口耕一専務より本部の報告がある。学校での茶道の指導は、明治44年に、全国約6000校、8000人の指導者でスタート。格別に熱心であったのが裏千家であった。

事例発表は、京都南青年部の活動報告。京都府のガールスカウト連盟の子ども達にマナー教室として茶道を教えている。

「継承者への変容」は「学ぶ側」から「教える側」への経験をすると視点が変わる。
・知識の再構築〜子どもの「なぜ?」と言う純粋な質問に、自分の理解の浅さを痛感
・教授者としての視座〜どうすれば伝わるかを必死に考える
・当事者意識〜文化を学ぶ側から未来へ繋ぐ当事者の意識が芽生える

本質を突いた素晴らしいプレゼンでした。

午後の講演は、伊住宗禮氏(茶道資料館副館長)による「伝統文化継承の意義と課題」について。明治維新後、茶道は遊興のものとして教育の場から遠ざけられていた。徐々明治後期になり、やっと日本の伝統文化として認識されるようになったなど、学校茶道の始まり意義について理解が深まった。

最後に、102歳になられる大宗匠千玄室。「一盌(わん)からピースフルネスを」の理念を掲げ指導して来られました。最近は「The Enjoyment of tea」を提唱されているとのこと。

奈良、京都、宮津地区の支部長様とも昼食のテーブルでご一緒させていただき、有意義な交流の場となる。

「百花繚乱」の茶会〜隆国寺(牡丹寺)

晴天のGW。
今日は、牡丹でも有名な曹洞宗「隆国寺」(豊岡市日高町荒川22)でのお茶会へ出かける。

久しぶりに眺める隆国寺の庭園。丁寧に手入れされたお庭に咲く牡丹が美しい。
例年より少し遅く満開を迎えたそうだ。まるで今日の茶会を待っていてくれたのかも。

先代の住職・大田大穣老師には大変親しくしていただき、何度もお話をお聴きする機会もありました。今でも講話のエッセンスを覚えている。
KOH’s VIEW 『「作る心・食べる心」 但馬学10月例会』 (2007/10/27)
(面白くて大切な講話の一部を記録しています。読んでみてください)

現住職の大田大法さんとは、かれこれ30年ぐらい前になるが一緒にコンサートなどのイベントを企画したり、打ち上げに隆国寺の部屋をお借りしたり。私にとってもとても親しみとご縁の深い隆国寺さんである。

「花」尽くしの青年部席

話は前後しましたが、今日のお茶会「如水会」は、裏千家淡交会但馬支部が毎年春と秋に催す茶会。今回は中但地区(出石と日高)の当番で、本席と青年部の席で薄茶をいただく。

青年部席の主菓子はカーネーションを模したもの。いただくのがもったいないほど細やかに作ってある。

花尽くしの席を飾るお床のお花は、ホウチャクソウ(宝鐸草)、ミヤコワスレ(都忘れ)、シャクヤク(芍薬)

お天気にも恵まれ、春の風を感じながらいただく「百花繚乱」の茶会を楽しみました。

裏千家淡交会近畿の協議会に出席

茶道裏千家淡交会近畿第一地区の地区協議会に出席。(ホテルオークラ京都にて)

淡交会但馬支部は「近畿第一地区」に属す。
京都市(東西南北の4ブロック)と宮津・両丹(京都府)と滋賀、奈良支部と同じブロック。

令和6年度活動の報告と令和7年度行事予定予算案を協議。
巡回講演、各地区の周年事業、青年部活動、学校茶道などが対象となる。

流石に京都市内の支部はそれぞれ約1000名前後、滋賀、奈良も数百名の会員数であるが、各地区とも会員減少の課題を抱えている。

淡交会専務理事から、淡交会全体の現況報告と活動方針が示される。
・社会制度の変更(学校部活動が地域に委ねられる、など)
・初心者に対してハラスメント、ジェンダー問題に敏感であれ
・入会に際し、事前の説明を丁寧にする

などの考慮すべき点についてのお話がある。どれももっともな指摘であり、みんなで共有しなくてはならないと認識する。

裏千家淡交会総会〜京都にて

第134回(一社)茶道裏千家淡交会の総会に出席。会場はウェスティン都ホテルにて。
今回はJR山陰線を利用して、二条駅下車して地下鉄で蹴上で降車。

春の到来を思わせる快晴。
蹴上インクラインの桜並木の蕾が膨らみつつある。

話は飛ぶが帰りの電車に乗るために京都駅にタクシーで戻る。
大勢の外国からの観光客が京都タワーをバックに記念撮影をしている。

呈茶席でお茶を頂いた後、大宴会場「瑞穂の間」で総会が開催される。
冒頭、千玄室大宗匠様のご挨拶から始まる。日本各地で自然災害が発生していることを念頭に日々を大切に、とのお話。続いて千宗室家元のご挨拶。70の齢(数え)になり思うところを述べられる。

令和6年度の事業・会計報告、令和7年度の事業計画予算案が承認されスムーズに終了。

総会後に理事会が開かれ淡交会理事長の交代が決議される。
千容子(まさこ)様から千宗史(千敬史(たかふみ))若宗匠に交代。

総会後の懇親会。300名を超える出席者が総会後の懇親会に参加。

同テーブルには、丹後・丹波の支部長さんやお隣の岡山県の各エリアの支部長さん。
倉敷の方とは美観地区老舗酒蔵のお話、津山の方とはB’zの稲葉浩志、里庄町の方とは藤井風の話題など、ちょっと茶道とは関係ない話で盛り上がってしまう。

こうして日本各地の方とお会いできるのも総会に出席した「ご褒美」かなと思いました。

「NPO碧雲カフェ」〜 茶の湯の不思議な”チカラ”を求めて

【NPO碧雲カフェとは】
東海理事長を務める谷 昇(野村美術館館長)の呼びかけで、茶人や陶芸家、研究者などの有志により立ち上げた、社会奉仕活動の会。茶の湯を通して人と寄り添い、対話することで、茶の湯の持つ”チカラ”を感じてほしいと年間を通して茶に関わる催しを行います。
(「NPO碧雲カフェ」会員募集チラシ より)

「NPO碧雲カフェ」からチラシのご案内をいただき、京都でのセミナー「秀吉と利休」、に参加しました。

今回のセミナーの講師でもある谷昇理事長から、「碧雲カフェ」の趣旨・目的の説明があり、とても感銘を受けました。
・過疎地の高齢化、孤立化に対して「人が集まる茶会」を開く。
・被災地に赴き「抹茶とお菓子」で心の安らぎを提供する。
・(都市部など)孤立している人へ茶を通じて社会と交わる機会をつくる。

まさに、「活動する」ことで「茶の湯のチカラ」を求め、示すとの決意。
現代社会の中における「茶の湯」の存在意義を模索するものだと理解し、即入会手続きをさせていただく。

主宰者の谷先生は野村美術館の館長。10数年前から親しくしていただいています。
(妻が野村美術館の谷先生の講座で学んでいる)
但馬コネクションにもこれまでに2回ゲストとしてお迎えし、多数の参加者と共に貴重なセッションとなりました。

但馬コネクション・セッション記録
「茶の湯の心」(2013/06/21)
「和食の成り立ちと特徴」(2017/04/21)

こう申し上げるのも失礼ですが、80歳を超えてNPO法人を立ち上げ、「茶の湯」のチカラを模索しながら、社会に貢献されようとする挑戦には、本当に頭が下がります。

ぜひ皆さんも参加しませんか。

会員申込み方法
宛先: hekiuncafe@gmail.com
件名: 「碧雲カフェ入会希望」
記入: 名前、電話番号、メールアドレス、振込予定日
【年会費】3,000円
【振込先】ゆうちょ銀行
     店名:四四八(ヨンヨンハチ)
     普通:5456730 
     口座名:NPO碧雲カフェ

「秀吉と利休」〜NPO碧雲カフェ講演会

NPO碧雲カフェ主催の碧雲セミナーに参加。
会場は京都経済センター(京都商工会議所7階)。
講師 : 谷昇(NPO碧雲カフェ理事長)
演題 : 「秀吉と利休」

豊臣秀吉も千利休も、どちらもこれまでにある程度知っているので、今回のセミナーで書き留めた私なりのポイントを記入しておきます。

・秀吉は、瞬間湯沸かし(短期な性格)とよく言われるが、実は用意周到。
 – 小田原攻め(道路を封鎖し、海上を封鎖し、持久戦に持ち込む)
 – 朝鮮征伐に際し、名護屋城(朝鮮出兵の基地を造る)
  倭城(ウェソン=日本式の城砦群)を朝鮮半島南部の各地に築く
・茶の湯の確立は1520年代、(茶室、茶道具、点前の三要素)
・「山上宗二記」(1588年)茶道具の秘伝。「侘び茶」を論じる上で重要資料。
・三大茶会記
  –「天王寺屋会記」〜堺の豪商 津田宗達、宗久、宗凡。桃山期の歴史的事実
  –「松屋会記」〜奈良の豪商 松屋源三郎久政。茶道全盛期、北野大茶湯の記述
  –「今井宗久茶湯日記抜書」or 「宗湛日記」

「利休の評価」の見直しが進んでいる箇所も興味深い。
(以下、レジメ資料)

・珠光→紹鷗→利休 の道統の再検討
・堺茶人グループ内における位置・評価
・堺派と京都派のヘゲモニー争い
・権力者、とりわけ秀吉への接近の意味と効果
・侘数寄成立に果たした役割
・目指した茶、守った茶
・後継はなぜ道安んでなく少庵であったのか
 (堺千家と京千家)

あまりにも有名な二人だが、考えてみると実際どのような関係だったのだろうか。お互いのメリットとは?役割はなんだったのか?など歴史から考えてみるのも興味深い。

胡銅と雲龍釜と〜茶の湯文化学会近畿例会

同志社今出川キャンパス クラーク記念館

茶の湯文化学会近畿地区例会に出席。
茶の湯文化学会に入会し10数年になり、これまで総会(通常6月開催)、茶に関連する海外視察(中国、韓国、台湾)にも参加してきました。ここしばらく欠席がちでなので、久しぶりの例会に出席。近畿地区の例会は、ここ同志社大学のキャンパスを利用されることが多い。

今回のセミナーの会場は「至誠館」の1階教室。

第一講は、「胡洞研究序説」と題して山本堯氏(泉屋博古館)の講義。

胡銅(こどう)とは、銅を主体とした錫(すず)や鉛の合金で、青銅の一種です。唐銅(からかね)とも呼ばれ、茶器などをつくるために珍重されました。
【特徴】
茶褐色をしており、時代が経ると錆味をもち、黒色に変化する
古くは「ことう」とも表記された
茶器などがこれで作られ、珍重された
【使用例】
桃山時代に人気があった胡銅製の花生「曾呂利」
正倉院宝庫には砂張製の水瓶・皿・匙など多数の胡銅製の食器がある
(「AIによる概要」より)

第二講は、雲龍釜の文様に関する一考察」と題して、伊住積禮次郎氏(茶道資料館)の講義。

雲龍釜(うんりゅうがま)
茶釜の一種。円筒形で、胴に雲に飛龍の図が鋳出してある。辻与次郎作の利休好みのものが有名。
(コトバンク より)

「胡銅」も「雲龍釜」も私にとっては、門外漢もいいところで、お話は珍紛漢紛。ただ、少しずつでも茶の湯文化について学ぶ機会があれば、可能な限り出向くのを今年の目標としている。いつかの茶会で遭遇した時を思い浮かべながら。

淡交会但馬支部2月幹事会

淡交会但馬支部の幹事会に出席。(会場は豊岡市民プラザ)
今年度より支部長をさせていただくことになり、その最初の幹事会。

会議の冒頭は支部長、副支部長の挨拶から始まるので、これまでも何の話題をお話しよかと悩ましい。しかも、今年からトップバッターなので尚更だ。

話題は、前日に訪ねた舞鶴のお話をしました。
細川幽斎は茶道にも通じていたこと(息子の細川忠興は、利休七哲に数えられる茶人)などと託けながら。両丹支部長さんにもご挨拶したことなど。地方にはそれぞれに掛け替えのない歴史と文化を持っている。それを大切にしたいものですね、といった趣旨で。

3月9日に控えた利休忌(但馬支部総会)の打ち合わせを行なう。
新年度で初めて役員をされる方が多いので、幹事長から年間行事の役割などの説明を丁寧に行なう。

なんとか「楽しい茶の湯」にしていきたい。
(首相の「楽しい日本」ではありませんが)(^_^;)

ちょっと舞鶴へ〜幽斎を訪ねて

田辺城址

思い立って、細川幽斎を訪ねて舞鶴へ。

納税協会の関連団体より講演の依頼をいただき舞鶴へ来たことがあるがその一度だけ。地名と場所は分かるが、どんな街なのか海上自衛隊基地があること以外、ほとんど知らないと言っても良い。一度、訪れてみたい近隣の街でした。

歴史、人物のポイント

細川藤孝(幽斎)〜足利将軍家、織田信長、豊臣秀吉に仕えた安土桃山時代の武将。細川忠興(三斎)の父。和歌、古典、有識故実、音曲、茶道、料理などの学問・芸能を極めた当代屈指の文化人。

田辺籠城〜関ヶ原合戦(1600年)の前哨戦として西軍1万5千人の軍勢が細川氏の領国の丹後を攻める。この時、忠興率いる主力は東軍(徳川家康)の陣にある。幽斎は残された約500人ほどの兵で迎え撃ち、田辺城に籠城。52日間の籠城の折に、幽斎は「古今和歌集」の秘事口伝の伝承者(古今伝授)であったため、廃絶を憂慮した後陽成天皇の勅令で包囲が解かれた。

田辺城〜1582年(天正10年)の本能寺の変の後、隠居した細川幽斎が住む城として築かれる。以後、細川→京極→牧野氏の居城として約290年間、領内統治の中心的存在。1873年(明治6年)に廃城され、城郭は解体、堀は埋められた。

心種園〜幽斎の田辺籠城戦の最中に詠んだ和歌「古も今もかはらぬ世の中に心の種を残す言の葉」にちなんで名付けらる。建物も壊され、堀も埋められたが、残る城内の庭園。

今回の訪問で知ったこと、思ったこと。
・信長、秀吉、家康のビッグスリーの時代で細川幽斎・三斎がどのような存在であったか、明智光秀とガラシャ(光秀の娘、三斎の妻)、戦国の世での文化(古今和歌集)伝承。
・舞鶴の地名の由来。元々この辺りの地名は「田辺」であったが、田辺城の別名「舞鶴城」(ぶかくじょう、城郭が鶴が舞っている様であった)から「舞鶴」(まいづる)となった。
・細川家の後、田辺城の城主は京極家になり(1600年)、さらに牧野家になる(1668年)時に、京極家は豊岡に転封(国替え)となる。現在、豊岡には京極家の末裔が住んでいらしゃ李、かつての豊岡藩の藩校「稽古堂」は、市役所の一部(旧市役所の建物)の名称にもなっている。
・明治維新の「廃城令」で取り壊された田辺城。全国で193あった城は一部を残して破壊する。新政府の財政悪化、廃藩置県により維持管理の負担、反抗運動の拠点になる可能性などの理由で壊された。(もっと各地方の城が残っていれば、地方都市の歴史的建造物、市民の拠り所として、文化遺産として絶大な存在価値があっただろうにと思うと残念)

夕闇迫る中、せっかくなので田辺城址の近くの桂林寺(田辺籠城の折に幽斎を支援)、東舞鶴に移動して舞鶴海上自衛隊基地に立ち寄る。

雲門寺

そうそう、もう一つ。
現在、裏千家淡交会両丹支部の支部長をされている雲門寺の住職さんにもご挨拶。

桂林寺さんも雲門寺さんも、大きくて立派な山門、境内で感心する。
地域が持つ歴史の深さがこう言うところにも現れているのだと、納得しながら帰路に着く。