市立伊丹ミュージアム を訪ねる。 ロゴマーク I’ M は、ItamiとMuseumのイニシャル(と誰もが判る)でなかなか気に入りました。入り口から中に入るとガラス張りのロビーの向こうに日本庭園を眺める。
もともとこの地にあった「柿衛文庫」「市立美術館」「工芸センター」「郷土館」に「博物館」を移転させて統合して、芸術・文化・歴史の総合的な発信拠点にしたそうだ。こういう方針でこのミュージアムを実現させた伊丹市は、これだけで注目したくなるし、素敵な街だと思います。
今回の伊丹を訪ねたのは、荒木村重 とその有岡城 を見学するのが目的。
戦国時代の武将・荒木村重(1535年頃〜1586年)は、織田信長に反旗を翻した“謀反の将”として有名。後半の人生は文化人・茶人として秀吉時代を生き、利休十哲にも数えられる。
摂津国で勢力を広げ、のちに 有岡城(伊丹城) を拠点する。信長の有力家臣として軍功も多く、順調に出世していくが、1580年、突如として信長に謀反を起こす。 その理由には諸説あり。(そこが歴史の興味を唆るところ)。 • 信長の苛烈な処断に対する不信・恐怖説 • 羽柴(豊臣)秀吉との対立説 • 石山本願寺との密通説 • 信長の中央集権化への反発 結果的に、有岡城は信長軍に包囲され、約1年の籠城戦の末落城。
その際、村重は、妻子・家臣を見捨てて城を脱出し、妻子や家臣は捕えられ、多くが処刑される。この点が村重の評判を下げている。しかし、近年、村重の研究が進むにつれて、再評価される(そこまでしても何を得ようとしたのか)。
ミュージアムに隣接する「旧岡田住宅・酒造」では「清酒発祥の地」としての展示がされている。ここで山中鹿之介が登場。(永楽館歌舞伎の今年の演目「神の鳥」にも登場 )
山中鹿之介 (1545年〜1578年)は、戦国時代の武将。尼子(あまご)再興に生涯を捧げた忠義の武将。
尼子家の“再興の英雄” 山陰の大名・尼子氏が毛利元就に滅ぼされると、 鹿之介はわずかな仲間とともに “尼子再興軍” を結成。 • 何度も敗れても諦めない • 各地を奔走して味方を集める • 武勇と忠義で多くの武士から尊敬された この“再興運動”は彼の人生そのもの
「七難八苦を与えたまえ」 鹿之介が月に向かって祈ったとされる有名な言葉。 「我に七難八苦を与えたまえ」 普通は「成功を与えてください」だが、 鹿之介は「困難をください」と願った。 • 困難を乗り越えることで武士として鍛えられる • 主君を再興するためなら苦難を厭わない という強い覚悟が込められている。
武勇は“日本一の兵”と讃えられた • 奇襲や夜襲に長ける • 体力と胆力が抜群 • 粘り強く諦めない性格から“山陰の虎”と呼ばれることも
最後は備中で最期を迎える 1578年、尼子再興を図るため上月城に籠城するが、 毛利軍に包囲され落城。 降伏後、護送中に毛利家臣により殺害され生涯を閉じる(享年34)。 短い人生ながら、その忠義と勇気は伝説化された。
短命ながら戦国時代屈指の“義の武将”。 これまで、戦国時代の山陰地域、但馬の話の中で山中鹿之介の名前を知っていたが、もう一つその人物像を描けなかったので、これでスッキリ。
鹿之助の息子である新六幸元は、戦乱から逃れ、現伊丹市の北部の鴻池に住み、酒造業を始める。造った酒を江戸に運び大きな利益を得る。その後、後継たちが大阪に出て酒造業を営み、両替商として成功を收める。現在の鴻池組へと繋がっている。
(今回は時間の都合上、有岡城跡には行けず。再度訪問予定を立てる予定)