民藝と工芸の郷〜神戸・鳥取経済同友会合同懇談会

鳥取と神戸(兵庫県)経済同友会の定期交流会に参加する。今年は鳥取に訪問。
今回は陶芸を中心とした「民藝と工芸」をテーマに企画されている。

最初に訪れたのは「鳥取民藝美術館」。
医師・吉田璋也(1889年〜1961年)により柳宗悦の「民藝の美」の普及と新たな創造の指針、鳥取民藝運動の拠点として創設される。(1949年)。
朝鮮陶磁器、日/中/西洋の古民藝や、吉田璋也自身の作品も展示されている。

移動して「いなば西郷 工芸の郷」を訪ねる。
この地出身の陶芸家・前田昭博氏(人間国宝)の提唱で始まる。2016年に一般社団法人化し、2021年に作家作品を展示する「ギャラリー&カフェ okudan」がオープン。現在、約10名(軒)の作家が創作をしている。江戸時代後期からこの地で開窯した「牛ノ戸焼」、全国か創作に意欲を燃やす若手陶芸家やクラフトマンが移住してきている。

牛ノ戸焼の当代陶芸家小林孝男さん。
(山崎亮氏解説による牛ノ戸焼)
江戸時代後期に、島根県江津市から粘土を求めてこの地に移住。
出土する粘土の土地の見学、粘土の練り、ろくろ、乾燥、素焼き、釉薬をかける。
肯定順に丁寧に説明をしていただく。

また、ゆっくりと訪ねてみたい西郷の里

「荒木村重」を訪ねて〜市立伊丹ミュージアム

市立伊丹ミュージアムを訪ねる。
ロゴマーク I’ M は、ItamiとMuseumのイニシャル(と誰もが判る)でなかなか気に入りました。入り口から中に入るとガラス張りのロビーの向こうに日本庭園を眺める。

もともとこの地にあった「柿衛文庫」「市立美術館」「工芸センター」「郷土館」に「博物館」を移転させて統合して、芸術・文化・歴史の総合的な発信拠点にしたそうだ。こういう方針でこのミュージアムを実現させた伊丹市は、これだけで注目したくなるし、素敵な街だと思います。

今回の伊丹を訪ねたのは、荒木村重とその有岡城を見学するのが目的。

戦国時代の武将・荒木村重(1535年頃〜1586年)は、織田信長に反旗を翻した“謀反の将”として有名。後半の人生は文化人・茶人として秀吉時代を生き、利休十哲にも数えられる。

摂津国で勢力を広げ、のちに 有岡城(伊丹城) を拠点する。信長の有力家臣として軍功も多く、順調に出世していくが、1580年、突如として信長に謀反を起こす。
その理由には諸説あり。(そこが歴史の興味を唆るところ)。
• 信長の苛烈な処断に対する不信・恐怖説
• 羽柴(豊臣)秀吉との対立説
• 石山本願寺との密通説
• 信長の中央集権化への反発
結果的に、有岡城は信長軍に包囲され、約1年の籠城戦の末落城。

その際、村重は、妻子・家臣を見捨てて城を脱出し、妻子や家臣は捕えられ、多くが処刑される。この点が村重の評判を下げている。しかし、近年、村重の研究が進むにつれて、再評価される(そこまでしても何を得ようとしたのか)。

ミュージアムに隣接する「旧岡田住宅・酒造」では「清酒発祥の地」としての展示がされている。ここで山中鹿之介が登場。(永楽館歌舞伎の今年の演目「神の鳥」にも登場

山中鹿之介(1545年〜1578年)は、戦国時代の武将。尼子(あまご)再興に生涯を捧げた忠義の武将。

尼子家の“再興の英雄”
山陰の大名・尼子氏が毛利元就に滅ぼされると、
鹿之介はわずかな仲間とともに “尼子再興軍” を結成。
• 何度も敗れても諦めない
• 各地を奔走して味方を集める
• 武勇と忠義で多くの武士から尊敬された
この“再興運動”は彼の人生そのもの

「七難八苦を与えたまえ」
鹿之介が月に向かって祈ったとされる有名な言葉。
「我に七難八苦を与えたまえ」
普通は「成功を与えてください」だが、
鹿之介は「困難をください」と願った。
• 困難を乗り越えることで武士として鍛えられる
• 主君を再興するためなら苦難を厭わない
という強い覚悟が込められている。

武勇は“日本一の兵”と讃えられた
• 奇襲や夜襲に長ける
• 体力と胆力が抜群
• 粘り強く諦めない性格から“山陰の虎”と呼ばれることも

最後は備中で最期を迎える
1578年、尼子再興を図るため上月城に籠城するが、
毛利軍に包囲され落城。
降伏後、護送中に毛利家臣により殺害され生涯を閉じる(享年34)。
短い人生ながら、その忠義と勇気は伝説化された。

短命ながら戦国時代屈指の“義の武将”。
これまで、戦国時代の山陰地域、但馬の話の中で山中鹿之介の名前を知っていたが、もう一つその人物像を描けなかったので、これでスッキリ。

鹿之助の息子である新六幸元は、戦乱から逃れ、現伊丹市の北部の鴻池に住み、酒造業を始める。造った酒を江戸に運び大きな利益を得る。その後、後継たちが大阪に出て酒造業を営み、両替商として成功を收める。現在の鴻池組へと繋がっている。

(今回は時間の都合上、有岡城跡には行けず。再度訪問予定を立てる予定)

SCOT SUMMER SEASON 2025〜第50回を迎える

2018年に久しぶりに利賀村訪ね、以後1回飛ばしたが、今年で7回目のSCOT SUMMER SEASON。

「久しぶり」と言うのは、実は50年前の1976年、鈴木忠志の早稲田小劇場が東京から利賀村(現・富山県南砺市利賀村)に引っ越し。センセーショナルな「事件」でした。
鈴木忠志追っかけファンの私は当然ながら、利賀山房開場記念公園に行く。
「宴の夜・一」「経政(つねまさ)」(観世寿夫出演)の観劇。

当時は、1960年代からの小劇場全盛の演劇界。
寺山修司「天井桟敷」、唐十郎「状況劇場(赤テント)、太田省吾「転形劇場」、佐藤信「劇団黒テント」、そして鈴木忠志「早稲田小劇場」など群雄割拠。特に私は鈴木忠志の「わせしょう」の大ファンでした。

今回はその利賀村での活動50年目の記念の年。
自分の50年を振り返る利賀村でもありました。

野外劇場(設計:磯崎新)

毎年恒例の「世界の果てからこんにちは」の終演後の鈴木忠志さんの舞台挨拶。
今年86歳になられたこと。これからもSCOTの活動を継続していくこと。利賀芸術公園の存続を南砺市の田中幹夫市長にも協力をお願いしたいことなど、挨拶される。
これからも健康に留意され、1年でも長く現役でいていただきたい。

「果てこん」は男性ばかりの出演なので、女性陣も一役舞台を盛り上げようと、ダンシングチームを結成。パンプキンガールズ? 最近は、劇団で育てたカボチャを観客に「お土産」として配ることになっている。今年は2000個を目標に栽培したそうだ。

パンプキンガールズの右から2番目は、芸術文化観光専門職大学を今年3月に卒業して的だんSCOTに入団した丸山るかさん。シェアハウス江原101の住民でもあったるかちゃんの応援も兼ねての利賀村でした。

橿原市昆虫館〜大正解の寄り道

時間があれば寄ろうね、と孫たちにあまり期待持たせないようにしていた。石舞台古墳の見学を終え、車のナビで確認すると数分で行けるところにある。
「じゃあ、行ってみよう」となったのが「橿原市昆虫博物館」。
これがなんと大正解!孫たち大喜び。

まず建物のある環境と佇まいが気に入る。チケット買って入場すると「地球は虫の惑星」のパネルが待ち受ける。昆虫館のコンセプトは「見て、聞いて、触って、感じる」。
なかなかワクワクする演出。

家ではクワガタを11匹飼っている孫K。だが、オオクワガタは、レッドデータ昆虫に指定されていて入手困難。標本ではあるがアコガレのオオクワガタを前に大興奮。

林を再現して地中の生き物も覗ける。なかなか工夫がされている。
温室では、亜熱帯の植物が花を咲かせ、蝶が乱舞している。

解説によると

チョウの形をイメージした温室では10種類500頭以上のチョウが季節を問わず飛び交い、亜熱帯の植物が華麗な花を咲かせており、まさに南国ムード満点。生きたヘラクレスオオカブトやニジイロクワガタ、タガメなども間近に観察することができる。1000点を超える国内外の昆虫標本や化石、パネルや映像を用いた解説などもあり館内は昆虫ワールド。

「時間があれば」で立ち寄ったのに、充実した展示に驚き大満足。

建物の壁には、トンボやカマキリやハチなど、昆虫の顔のレリーフ。

建物、標本、自然の再現、温室、特別展(この時は「世界のオサムシ展」)など、どれをとってもレベルが高い。昆虫愛に満ちた「橿原市昆虫館」は誰もが訪ねる価値ありのお薦めスポットです。

古代の奈良を訪ねて

奈良2日目は、東大寺〜春日大社〜若草山の周辺をドライブ。
孫たちは車から降りて鹿と遊びたいのかと思いきや、これまでに2回来て遊んだから降りなくていいよ、だって。
車から降りたいのは私だったのかと気づく。(^ ^;

奈良公園からそのまま向かったのが、弥生時代の大規模集落跡「唐古・鍵遺跡」(からこかぎいせき)(奈良県磯城郡田原本町)。

・時代は弥生時代中期〜後期(BC2世紀〜3世紀ごろ)。
・日本最大級の環濠集落跡ある。
・高床式倉庫を描いた土器が発見される
・銅鏡・鉄器・ガラス玉など広範な交流を示す遺物が発見される
・集会所と見られる大型建物跡がある

以上のようなことから、唐古・鍵遺跡は、時代・規模・文化から卑弥呼の邪馬台国との関連を推測する説もある。

土器に描かれた楼閣を復元した建物。

卑弥呼との関連は?

発掘資料から「卑弥呼本人や邪馬台国」と断定できるものは見つかっていないこと。卑弥呼の時代(3世紀前半〜中頃)には、唐古・鍵遺跡は既に衰退期だった可能性もある。

と、言う理由で断定には至っていない。

田原本町からさらに南へ下がって、石舞台(奈良県明日香村)へ。
石舞台は、7世紀初頭に造られ、蘇我馬子の墓とされているのが有力説となっている。

奈良と言えば、つい東大寺(奈良時代)を思い浮かべるけど、唐古・鍵遺跡(弥生時代)、法隆寺(飛鳥時代)と古代日本からの歴史が詰まっている。

古代の奈良の再認識する旅となる。
孫たちはそんなことはつゆ知らず。
歴史遺物の周囲を走り回っているだけでも良き体験になってくれればそれで良し。

今年2回目の奈良は孫たちと

今年の正月は40年ぶりの奈良・法隆寺だったが、今回は孫と一緒に訪ねる。
真冬のしかも閉門前の夕方の法隆寺とは全く趣が異なる。

世界最古の木造建築として知られる法隆寺。
用明天皇のご遺願を継いで推古天皇と聖徳太子によって、607年(推古15年)に寺と本尊・薬師如来を造られた。

金堂(飛鳥時代)には、
釈迦三尊像(国宝)、薬師如来像(国宝)阿弥陀三尊像(重文)、金堂天蓋(国宝)、吉祥天像(国宝)。

百済観音堂(大宝蔵院)には、
百済観音像(国宝)、観音菩薩像[夢違観音](国宝)、玉虫厨子(国宝)

夢殿

夢殿(奈良時代)は、
聖徳太子の遺徳を偲んで739年(天平11年)に建てられた。
聖徳太子等身の秘仏 救世観音像(国宝)が安置されている。

今回は孫を連れて「国宝の旅」だが、価値や理解はできないだろうけど、身体のどこかに「法隆寺」が記憶されると嬉しいものだけど。

ちょっと舞鶴へ〜幽斎を訪ねて

田辺城址

思い立って、細川幽斎を訪ねて舞鶴へ。

納税協会の関連団体より講演の依頼をいただき舞鶴へ来たことがあるがその一度だけ。地名と場所は分かるが、どんな街なのか海上自衛隊基地があること以外、ほとんど知らないと言っても良い。一度、訪れてみたい近隣の街でした。

歴史、人物のポイント

細川藤孝(幽斎)〜足利将軍家、織田信長、豊臣秀吉に仕えた安土桃山時代の武将。細川忠興(三斎)の父。和歌、古典、有識故実、音曲、茶道、料理などの学問・芸能を極めた当代屈指の文化人。

田辺籠城〜関ヶ原合戦(1600年)の前哨戦として西軍1万5千人の軍勢が細川氏の領国の丹後を攻める。この時、忠興率いる主力は東軍(徳川家康)の陣にある。幽斎は残された約500人ほどの兵で迎え撃ち、田辺城に籠城。52日間の籠城の折に、幽斎は「古今和歌集」の秘事口伝の伝承者(古今伝授)であったため、廃絶を憂慮した後陽成天皇の勅令で包囲が解かれた。

田辺城〜1582年(天正10年)の本能寺の変の後、隠居した細川幽斎が住む城として築かれる。以後、細川→京極→牧野氏の居城として約290年間、領内統治の中心的存在。1873年(明治6年)に廃城され、城郭は解体、堀は埋められた。

心種園〜幽斎の田辺籠城戦の最中に詠んだ和歌「古も今もかはらぬ世の中に心の種を残す言の葉」にちなんで名付けらる。建物も壊され、堀も埋められたが、残る城内の庭園。

今回の訪問で知ったこと、思ったこと。
・信長、秀吉、家康のビッグスリーの時代で細川幽斎・三斎がどのような存在であったか、明智光秀とガラシャ(光秀の娘、三斎の妻)、戦国の世での文化(古今和歌集)伝承。
・舞鶴の地名の由来。元々この辺りの地名は「田辺」であったが、田辺城の別名「舞鶴城」(ぶかくじょう、城郭が鶴が舞っている様であった)から「舞鶴」(まいづる)となった。
・細川家の後、田辺城の城主は京極家になり(1600年)、さらに牧野家になる(1668年)時に、京極家は豊岡に転封(国替え)となる。現在、豊岡には京極家の末裔が住んでいらしゃ李、かつての豊岡藩の藩校「稽古堂」は、市役所の一部(旧市役所の建物)の名称にもなっている。
・明治維新の「廃城令」で取り壊された田辺城。全国で193あった城は一部を残して破壊する。新政府の財政悪化、廃藩置県により維持管理の負担、反抗運動の拠点になる可能性などの理由で壊された。(もっと各地方の城が残っていれば、地方都市の歴史的建造物、市民の拠り所として、文化遺産として絶大な存在価値があっただろうにと思うと残念)

夕闇迫る中、せっかくなので田辺城址の近くの桂林寺(田辺籠城の折に幽斎を支援)、東舞鶴に移動して舞鶴海上自衛隊基地に立ち寄る。

雲門寺

そうそう、もう一つ。
現在、裏千家淡交会両丹支部の支部長をされている雲門寺の住職さんにもご挨拶。

桂林寺さんも雲門寺さんも、大きくて立派な山門、境内で感心する。
地域が持つ歴史の深さがこう言うところにも現れているのだと、納得しながら帰路に着く。

CINQUE IKARIYA〜炭火焼きが美味しいイタリアン(京都)

京都町屋を改装したイタリアン・レストラン「チンクエ イカリヤ」。

宿泊するホテル近くでイタリアンで検索して行ったお店が大正解でした。看板料理が炭焼き肉料理とあるのが決め手となる。

骨付き鶏ももの炭火焼き。中身はフワッとして柔らかく少しお焦げがついて香ばしい。イメージ通りの美味しい一品でした。パルメジャーノレッジャーノチーズに作ったお椀型のくぼみの中に入れてリゾットが出てくるなかなか憎い演出。こちらもなかなかの一品。

京都地元の野菜にこだわった前菜、サラダなどもおすすめ。
ワインもお料理に合わせて紹介してくれるのも良かった。

CINQUE IKARIYA(チンクエ イカリヤ)
京都府京都市中京区突抜町138-3
075-708-6815

40年ぶりの法隆寺

社員旅行で訪ねて以来、約40年ぶりの法隆寺。
五重塔と金堂は覚えているが、境内の配置など記憶が薄れている。

五重塔と金堂

閉門まで30分しかない時間に訪ねたので回廊に囲まれた境内しか参拝できないのが残念。夕暮れが迫り、夕陽に照らされてまさに金堂がさらに赤く輝くのが美しい。

夕陽に照らされて赤く染まる五重塔。

版築の壁。
仕上げの塗りが落ちて積み重ねた土が筋状になって現れている。
古きものでも自然素材は美しい。

正岡子規の「柿くえば鐘が鳴るなり法隆寺」を口ずさみながら法隆寺を後にする。

法隆寺
奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内1-1
tel :0745-75-2555

慈光院〜さつきの庭園と奈良平野の眺望が素晴らしい

境内入口

聚光院(奈良県大和郡山市)を訪ねる。

慈光院(じこういん)は臨済宗大徳寺派の寺院。
石州流茶道の祖・片桐石見守貞昌(石州)が父・貞隆の菩提寺として建立。1663年(寛文3年)

客殿前は、、平垣にして周囲に大刈込、築山、庭石、まつ、ひのき、かし、つばき、つつじ、さつき等の樹木を配し 石敷道と歩石とは客殿と庭門とを繋ぐ
(入口案内板より)

茅葺き屋根。
入母屋造茅葺屋根の書院。
茨木門は徳川家康の発した一国一城令により取り壊された片桐石州の出生地でもある摂津茨木城の楼門をもらい受けたもの。屋根を書院と合わせて茅葺きに葺き替えている。

白砂とサツキの大刈込みの庭園。
大和平野を一望できる借景を書院から東を眺める。

茶室(高林庵)は重要文化財となっている。
片桐石州好みの二畳台目の席。
床前を点前座とした亭主床の構えをとる。

この築山には圧倒される。
サツキやツツジが入り混じる。抹茶をいただきながら住職のお話を聞く。
鳥が種を運んできた実生(みしょう)の木も混じっているそうだ。

慈光院
奈良県大和郡山市小泉町865
tel:0743-53-3004