岩下徹×梅津和時 即興セッション『みみをすます』

ここは「氣多神社」(豊岡市日高町上ノ郷)。
平安時代ごろから各地の国府近くに総社が置かれ、この氣多神社は但馬の総社とされる。大木に囲まれた厳かな雰囲気に包まれる神社だ。

神社境内をぐるりと囲むように客が立ち、座る。

その真ん中で岩下徹の舞踏が始まる。

フリージャズマン梅津和時のサックスとの即興コラボ。

カラスが鳴き、犬が吠える。
風が吹き抜けて落ち葉が舞う。
鳥居の向こうから車の通り過ぎる音。

まさに「みみをすます」。
永楽館でのパフォーマンスも観たが、その体験は全く違う。

岩下徹×梅津和時 即興セッション『みみをすます(谷川俊太郎同名詩より)』

『お父さんのバックドロップ」坂口修一リーディング公演

豊岡演劇祭フリンジ公演チラシより

豊岡演劇祭2日目。会場は「出石明治館」
『お父さんのバックドロップ』坂口修一リーディング公演

「中島らもの名作短編小説をリーディング公演として」とパンフレットにあるが、リーディングどころではない迫力満点の熱演。どこからどこまでが台本で、どこがアドリブで、客席とのやりとりもハプニング(計算できない)だらけ。ダイナミックな一人芝居。

公演後、坂口さんと立ち話。
坂口さんは『豊岡かよっ!』(豊岡市民プラザ)にも出演予定。2005年現在の豊岡市への1市5町の合併の経緯をコメディタッチで描く。「日高」役で出演。「私は日高町です。楽しみにしています」と激励させていただく。が、逆にプレッシャーになったかも。(^ ^)

鈴木忠志トーク〜利賀村3日目

恒例の『鈴木忠志トーク』。
毎回、いきなり「何か質問は?」と切り出す鈴木忠志さん。
何を知りたいのか、何に関心があるのか、なんでも答えるよ、と始まる。

初めて利賀村に来る人、過去、現在に実際に演劇をやっているか、強い関心を持っている人など、様々な視点から質問が飛び交う。特に、初めての人から「なぜ利賀村へ来たのか」「シンデレラ」のエンタメ性を観劇して、「演劇理論が変わったのか」など、ストレートな質問に対して鈴木さんの受け答えが面白い。

「今さら訊くなよね」と言いながら、その答えは毎度、本質をついたもの。
役者の日々の肉体的鍛錬・演技指導だけでなく、これも「鈴木メソッド」か。

今日の観劇は、
『鈴木忠志トーク』 利賀大山房にて
『エレクトラ』 演出:鈴木忠志、作曲・演奏:高田みどり

2つの演目を見終えて、14時に利賀村を出発し帰路につく。
休憩入れて約6時間の車の旅。
回を重ねるごとに、近くに感じてくる。
来年また来よう。

晴れ渡った利賀村2日目

翌朝は、清々しい晴天。透き通った百瀬川。

今日の観劇は、
『弱法師』 芸術監督:宮城總、演出:石神夏希
『シンデレラ』 演出:鈴木忠志
(公演を撮影できないのがなんとも歯痒いが、致し方ない)

そして、

毎回の目玉演目『世界の果てからこんにちは I 』(演出:鈴木忠志)。
開演1時間前に舞台をチェックする役者の姿が見える。

世界で唯一の花火を打ち上げる野外劇。(鈴木忠志さん曰く)。おそらく間違いないだろう。打ち上げるのも劇団員のメンバー。もちろん、花火の資格をとって絶妙のタイミングで花火が上がる。

観客から拍手が湧き上がる。
花火の威力は絶大だ。

終演後、舞台に上がる鈴木忠志さん。
「私もあと2〜3年。死ぬまでやりますから、死ぬまで来てください」と挨拶。
ちなみにこの挨拶の常套句は、もう10年以上続いているとか。

学生時代からの40年以上の鈴木忠志大ファンである私としたら、もっとこの続きをと、手を合わせたい瞬間だ。どうか元気で来年も、再来年も。もちろん私も死ぬまで利賀村へ行く覚悟です。

SCOT SUMMER SEASON 2022〜今年も利賀村へ

昨日までの3日間、地元江原にて劇団「遊学生」公演『地獄変』のサポートを終え、今日からは富山県の利賀村へ出発。直近で今年で4回目。車で5時間半、休憩入れても6時間で利賀村へ到着。ライトアップした新利賀山房が迎えてくれた。

あいにくの雨だが、ワクワクしながら列をなす人たち。

『胎内』会場の「岩舞台」

今日の観劇
『新ハムレット』 芸術監督:平田オリザ、演出:早坂彩。
↪︎出演は劇団青年団。
『胎内』 芸術監督;中島諒人、演出:伊藤全記

『地獄変』(立光寺公演)3日間満席で盛況裏に終了

劇団「遊学生」『地獄変』、立光寺(豊岡市日高町江原)公演は、3日間満席で無事終了。初めて演劇を観る地元の方達、現役学生がやる演劇に興味を持った人、彼らが豊岡滞在中に出会い、お世話になった方達、それぞれ思いを持って観劇されたようだ。大声をあげてたたみかけてくる場面、真っ暗な中で進行するシーン、観客のそれぞれの反応を見ているのも面白い。

そして最終公演では、最後のシーンで本堂の扉が突然ガラーっと開く。外の光と空気が流れ込む。架空の物語に引き込まれていた観客が現実に引き戻される瞬間。まるで観ていたものが夢だったのか、と日常にもどる。なかなかにくい演出だ。

脚本を書き、演出をし、演じた。会場と宿泊場所探し、交渉、その他公演の全てをプロデュースする制作スタッフ。東大、慶大、早大の現役の学生たち。彼らの創造力と実現させる情熱パワーには脱帽。私も大いなる刺激と楽しい時間をいただいた。

本番と全く異なる打ち上げの学生たち。
普段の学生に戻った瞬間だ。

素晴らしい時間をありがとう。また、江原に来てください。待ってるよー。

遊学生公演『地獄変』

劇団「遊学生」の『地獄変』

作品解説の最後に「今からみなさまが過ごされる時間だけが真実ですから、よい時間を過ごされることを切に願っております。」と記して締め括っている。

何が始まるのか、と最初は少し身構え(どんな演劇でも最初はそのような気持ちになる)、役者の演技をある意味突き放したように冷静に受け止めようとする意識が強い。やがて芝居の展開が見えてくると、その空間、舞台、登場する役者たちが徐々に溶け込んで、芝居の中に入り込んでいく瞬間がある。(それがない芝居もありますが)

芝居の始まりに感じる「ぎこちなさ」は、私が受け止める意識の中にあるのか、それとも演じる役者が劇に入っていく「始まり」なのか。

物語が問いかける人間の本性と徐々に変化していく役者の演技、「入り込んで」いく私の意識。

「とてもよい時間」を過ごしました。

今回の『地獄変』と立光寺さんの圧倒的存在感を持つ本堂との巡り合わせは、偶然とはいえ、今公演のハイライトの一つでした。

立光寺(りゅうこうじ)〜演劇公演を控えて

立光寺(りゅうこうじ)の山門。
明日からこちらの本堂で劇団「遊学生」による演劇公演が行われる。

立光寺は日蓮宗のお寺。私の自宅の近くにあり、小さい頃より節分の時に、近所のお寺さんをお参りする習慣があり、こちらの立光寺さんにも必ずお参りしたのを思い出す。

また、こちらの寺院では、古くより毎年7月23日に「清正公祭り」が行われている。戦国武将の加藤清正を祀る。「せいしょうこうさん」と言って子供の頃から馴染みのある祭り。やがて、日高町と日高町商工会の「夏祭り」は、このお祭りと合流させて「日高夏祭り」として盛大に行うことになる。裏山から打ち上げられる花火は夏の名物だ。

立光寺のご住職さんのご好意で実現する劇団遊学生の公演『地獄変』。ご住職さんの「お寺は住民の皆さんに愛され、使ってもらうことも大切です」との言葉が印象に残る。「清正公祭り」だけでなく、境内を使って近所の子供たちが集まるミニ祭りなども開催されていました。

本堂で公演稽古ををする劇団のメンバー。
チケットの販売は順調と聞く。ぜひ、地元の江原の皆さんにもオススメです。
演劇を楽しみ知っていただき、学生たちとの交流も始まれば願ってもないことです。
いよいよ本番が近づいてきた。

『ともに生きるための演劇』 平田オリザ・著

『ともに生きるための演劇』 平田オリザ・著

「会話」・・・親しい人同士のおしゃべり
「対話」・・・異なる価値観を持った人とのすり合わせ
そしてまず対話の場合、その大前提として「対等な人間関係」であることが求められます。先にも述べたように、日本はハイコンテクストな社会です。その上、この「対等な人間関係」というものがなかなか成り立たないという背景もありました。そもそも「対話」ができる機会自体が非常に少なかったのです。「対話」を学ぶ場が抜け落ちているという以前に、「対話」という概念が弱かったのかもしれません。
第2章 演劇で「日本語」を捉え直す (「対話と「会話」の違い p 57)

日本は「わかりあう文化」「察しあう文化」という独特の社会を形成してきた。それがアジアの中でいち早く近代化できた、との見解を示す。現代の世界は多様化に向かい、コロナウイルス感染、ロシアのウクライナ侵攻などによって世界は同時に影響を受けながら、一方で多様な価値観が表出してきている、との認識をまず示すところから始まっている。

作家であり、演出家の平田オリザ氏は、日本語に着目して、演技の違和感を指摘し、日常生活の中での「会話」と「対話」の違いからこれからの学校教育を考える。

さらに背景の違うもの同士がどうコミュニケーションを取ったら良いのか、異なる他者との向き合い方を指南する。「シンパシー/同情」と「エンパシー/共感する力」の理解、最後に「ゆるやかなネットワーク社会を作る」ことの大切さと意義を訴える。

印象に残るエピソード(事例)
・中高年男性の入院患者が「若い女性看護師に子供扱いされた」と怒る。それは日本語の歴史の中で、女性が男性に指示する関係は、おそらく母親が子どもに指示する関係しかなかったから。言語としてのボキャブラリーがまだ乏しい。
・自然災害は、家族友人を失い、家や集落が破壊され目に見え「同情できる」。コロナによるパニックは「わかりやすい弱者のいない災害」である。同情をどこに向けるのか?自分?そこから他者への攻撃転化になったのでは?
・「ライフ(life)」は、「命」と「人生」という両方の意味がある。守るのは「命」だけでなく「人生」も。人生は文化を必要としている。

※ハイコンテクスト〜同じ生活習慣、同じ価値観を持つ共同体。言葉で多くを説明しなくても理解できる。コンテクストとは「文脈」「コミュニケーションの基盤」「文化的な背景」。