ちょっと舞鶴へ〜幽斎を訪ねて

田辺城址

思い立って、細川幽斎を訪ねて舞鶴へ。

納税協会の関連団体より講演の依頼をいただき舞鶴へ来たことがあるがその一度だけ。地名と場所は分かるが、どんな街なのか海上自衛隊基地があること以外、ほとんど知らないと言っても良い。一度、訪れてみたい近隣の街でした。

歴史、人物のポイント

細川藤孝(幽斎)〜足利将軍家、織田信長、豊臣秀吉に仕えた安土桃山時代の武将。細川忠興(三斎)の父。和歌、古典、有識故実、音曲、茶道、料理などの学問・芸能を極めた当代屈指の文化人。

田辺籠城〜関ヶ原合戦(1600年)の前哨戦として西軍1万5千人の軍勢が細川氏の領国の丹後を攻める。この時、忠興率いる主力は東軍(徳川家康)の陣にある。幽斎は残された約500人ほどの兵で迎え撃ち、田辺城に籠城。52日間の籠城の折に、幽斎は「古今和歌集」の秘事口伝の伝承者(古今伝授)であったため、廃絶を憂慮した後陽成天皇の勅令で包囲が解かれた。

田辺城〜1582年(天正10年)の本能寺の変の後、隠居した細川幽斎が住む城として築かれる。以後、細川→京極→牧野氏の居城として約290年間、領内統治の中心的存在。1873年(明治6年)に廃城され、城郭は解体、堀は埋められた。

心種園〜幽斎の田辺籠城戦の最中に詠んだ和歌「古も今もかはらぬ世の中に心の種を残す言の葉」にちなんで名付けらる。建物も壊され、堀も埋められたが、残る城内の庭園。

今回の訪問で知ったこと、思ったこと。
・信長、秀吉、家康のビッグスリーの時代で細川幽斎・三斎がどのような存在であったか、明智光秀とガラシャ(光秀の娘、三斎の妻)、戦国の世での文化(古今和歌集)伝承。
・舞鶴の地名の由来。元々この辺りの地名は「田辺」であったが、田辺城の別名「舞鶴城」(ぶかくじょう、城郭が鶴が舞っている様であった)から「舞鶴」(まいづる)となった。
・細川家の後、田辺城の城主は京極家になり(1600年)、さらに牧野家になる(1668年)時に、京極家は豊岡に転封(国替え)となる。現在、豊岡には京極家の末裔が住んでいらしゃ李、かつての豊岡藩の藩校「稽古堂」は、市役所の一部(旧市役所の建物)の名称にもなっている。
・明治維新の「廃城令」で取り壊された田辺城。全国で193あった城は一部を残して破壊する。新政府の財政悪化、廃藩置県により維持管理の負担、反抗運動の拠点になる可能性などの理由で壊された。(もっと各地方の城が残っていれば、地方都市の歴史的建造物、市民の拠り所として、文化遺産として絶大な存在価値があっただろうにと思うと残念)

夕闇迫る中、せっかくなので田辺城址の近くの桂林寺(田辺籠城の折に幽斎を支援)、東舞鶴に移動して舞鶴海上自衛隊基地に立ち寄る。

雲門寺

そうそう、もう一つ。
現在、裏千家淡交会両丹支部の支部長をされている雲門寺の住職さんにもご挨拶。

桂林寺さんも雲門寺さんも、大きくて立派な山門、境内で感心する。
地域が持つ歴史の深さがこう言うところにも現れているのだと、納得しながら帰路に着く。

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